7/10/2011

無題

ふぅ。久々に勉強している感じがする。
いや、卒論のために本を読むとか、そういうグダグダしたのはやってたけど。
常に集中力を維持して、10分休憩して1時間また勉強するとか、なんかそういう受験スタイルが久々すぎる。下手したらホントに受験以来だ。笑

間が悪いことに今週の水曜日は英語学のテスト&自分の専門のフィールドワーク報告書提出。

んで今月末は2週連続でTOEFL。TOEFLのスコアは、受験日の2週間後からweb上で公開されるので、8月25日の奨学金締め切りに間に合う為には今月の末がギリギリ。そして応募のために教授から推薦状を一通と、大学院での研究計画を簡単に纏めなければ。
学部での専攻と全く違う分野を専攻しようとする門外漢に、大学院で何を研究するか書けって、結構無茶振りだと思うんだが、よく考えたら大学院の奨学金応募するのに何を研究するか分かってなかったらダメだよな。笑


がしかし、以前書いた僕を最もinspireした友人から昨日メールがきて(何故か英語で。笑)、飯に誘われた。それだけで元気が出たわけだが、しかも予定を調整してたらなんと来月まで予定が合わない。主に向こうの都合で。「こいつどんだけ忙しいんだ・・・」と思って、またinspireされた。やはり彼女を見ていると、立ち止まるのは損だと思ってしまう。
よし、元気出てきた。単純バンザイ。

7/09/2011

消極的決意。

さて、iBTにリスイッチしたのは良いものの。
圧倒的に点数が足りない。そして奨学金の締め切りは迫る迫る。多分奨学金応募に必要な点数は基準として公表されてはいないけど、104~110/120は無いと厳しいだろうな・・・。英語圏で暮らしたことのない日本人は、嘘か誠か90点を超えれば上等と言われているが、104~110点とはね。

ちょっと自信なくすわ。

とりあえず今月末に2回連続で受けてくる(と、110点持ってる友人に言ったら「そんな戦略はダメだよ-。」と言われた。申し込んだ後に言われてしまったがまぁ仕方ない。)。今話題の福島県で久々、人生2回目のiBT、次いで東京で。

「コツコツやる」ほど自分の性に合わない事はないけど、しょうがない、やるか。

7/07/2011

奨学金のはなし

先月の末からだけど、海外大学院用の奨学金が一つ募集を開始した。海外大学院の奨学金は大抵が渡航費から生活費、授業料まで全て負担してくれて、かつ返還の義務がないから嬉しい。JASSOを先頭に、日本も国外に人材を輩出したいと躍起になっているようだ。とはいえ(というか、それゆえ)倍率は軒並み10倍から20倍を超えているわけだが。笑


応募しようとしている奨学金は全部で5つ。これの全てに落ちれば、まず院進学の夢は絶たれる。道のりは険しい。が険しいなぞとは全く思っていないところが自分の良いところでもあり、悪いところでもある。それは「楽ちん楽ちん♪」と思っているわけでも、「俺は今progressしてるぜ!やってやる!」と血気盛んなわけでもない。要するに「ま、なんとかなるべ」と思っているわけだ。

これ失敗するパターンなんだよな。笑
スロースターターな自分に乾杯。

7/05/2011

ジェンダーと文化

今、「ジェンダーの人類学」なる集中講義を受けている。4年生になって授業は週1日2コマしかとっていなかったので、急に朝から4コマ連続とかになると困る。ていうか疲れる。

先生は、オープンリーゲイ(ゲイである事を公言しているゲイ)の人類学者(ご自身は「人類学者」と自称することに疑問を感じていらっしゃったようですが。笑)、砂川秀樹先生。ホームページはこちら
ホモセクシャルとはなんぞや?それを人類学的にとらえるとは?研究の歴史的な背景は?グローバル化するジェンダー論の実際とは?等々、明後日まで興味深い話がたくさん聞けそう。

性別の違いというのは、生理学的/病理学的な問題で、文化とは関係ないか?というとそうではない。特にジェンダーは「社会的性差」と訳されるように、社会や文化によって性役割が大きく異なる。「男らしさ/女らしさ」とは他ならぬ文化が規定する。ある文化は「狩猟」を最も「男らしい」と捉え、またある文化では「硬派」であることをそう捉える。その一方多くの文化で、攻撃的・好戦的な特徴が「男らしい」と捉えられる事は興味深い。

しかしいずれにせよ、もっと大きく捉えた場合ほぼ全ての文化で人間は「男と女」に分けられる。従って両性具有であったり、トランスジェンダーの人々は今まであった文化の枠組みでは捉えられない「奇妙な」存在になる。インドではそうした人々はヒジュラと呼ばれ、不可触民(untouchable)、またはそれにかなり近い存在として認識されている。

日本でもトランスジェンダー/インターセックス/ホモセクシュアルの人々は、まだ堂々と公言できない部分がある。それは日本文化においても「男でも女でもない」人々は認識の枠組みに入っていなかったからだ。でも文化が変化していくものである限り、これからの活動次第では性的マイノリティもまた文化の枠組みに入る可能性は多分にある。こうした問題は、サードカルチャーキッズと呼ばれる、「国際移動を繰り返したために、自分が何人か分からない子供たち」の問題によく似ている気がする。つまり、インターセックスが問題視されるのと同様に、インターナショナルな人々も問題視されるのである。


あ、以上の意見はとりあえず自前のものですので。誤解無きよう。


デビッド・C ポロック、ルース=ヴァン・リーケン
2010 『サードカルチャーキッズ 多文化の間で生きる子供たち』
東京:スリーエーネットワーク