4/28/2012

無題

春と鬱の関係がどうなっているかは知らないけど、春鬱ってあるらしいし、僕も春は躁鬱が激しい。

ていうか今まさに鬱だ。
毎年なるっちゃなるんだけど、まぁ今年も鬱々している。
今日書くのはそんな春鬱に関する雑感。

まず、僕は春って別に嫌いじゃないし、むしろ好きだ。
春になると桜が咲いて、虫が飛び始めて、気温もぽかぽか、大学には新入生が溢れ、希望に満ちた(ように見える)日々が続く。自分も何か新しい事にチャレンジしようかな、と思えるようになる。

ただ、同時に、春鬱のポイントはそこだと思う。

春は、冬と違って、周りの景色は刻々と変化していくのが分かる。桜は咲いては散り、気温は上がり始め、新歓シーズンが始まったと思ったら終わり、非日常が日常へと「落ち着いて」行く。
ところが自分はそう簡単に変わらない。昨日と同じ自分が生きている(ように感じる)。何も成長していなくて、「あれ、何にも成長してなくね?」と思って落ち込む。あるいは、成長したつもりが、人から自分の悪い噂を聞いたり、人に向けられた説教を勝手に自分への説教に置き換えたりして、いつも以上にへこんだりする。
それは自分の成長を否定しているわけではないけれど、自分にはそう聞こえる。

周りはどんどん変化していくのに、自分は停滞しているように感じる。そんで、周りの「非日常」が「日常」に落ち着いた時、つまり変化が一段落して、「周りの世界が自分の世界と一致した時」、やっと安心するんじゃないかな。春→夏、秋→冬よりも、夏→秋とか冬→春の変化の方が大きいから、春って鬱々するのでは。

でも事実、環境はかわれど花や木や虫たちは「成長」などとは露ほども思っていないだろうし、周りの人間だってそんなに簡単に成長してはいない。もっと言えば自分だっていつでも成長できるわけだし、要は周りの時の早さが「早く感じる」だけってことだろう(メイドインヘブン!)。
春を「きっかけ」として自分が新しい事に挑戦するのにやぶさかではないけれど、躓いたときは、人間そうは変わらないって事で、まぁ春を楽しめば幾分かは楽なのかも。

そんな雑感。




4/22/2012

エベレスト・パラダイムシフト-後編-

あれは去年の10月か11月の事だ。
当時僕は人生最大の挫折を迎えていた。iBTの点数がいくらやっても上がらなかったからだ(無題参照)。何かが足りないのに、何が足りないのか、どうやって補えば良いのか分からなかった。そのくせ11月からは卒論の執筆が本格的に始まり朝から晩まで研究室で執筆。英語の勉強に時間を割いている暇など無くなることが明々白々だった。
12月にはapplyを終えようと思っていたのに、それもどうやら難しそうだ・・・どんなサイトを見ても『渡米前年の夏にはTOEFLでスコアをとり、12月から、遅くとも1月にはapplyを終えましょう』なんて朗らかなトーンで書いていやがる。フザケンナ(だからこそ同じ境遇に居る誰かにこのブログが役に立つと信じるのだが)。

とにかく、英語に対する自信を失ったことと、留学準備が全く終わらない恐怖で僕は一人不安で狂いそうだった。周りには同じ境遇の人間などいないし、大学受験の時とは違って、孤独で、不安で、本当に押しつぶされそうだった。
そんな精神状態で迎えた11月。予想された通り、朝から終電まで研究室に籠もる生活が続いた。

とはいえ11月の僕はそんな生活を僕は楽しんでいた。冗談ではなく、本当に、楽しんでいた。
だって卒論に『不合格』は(99%)存在しないし、執筆する仲間や助けてくれる先生方が周りに居たし、何よりiBTの事や留学のことを考える暇が無かったから。卒論は留学準備を控えた僕にとって「一つのタスク」位に感じられたし、その「タスク」に失敗が無くて仲間も居るとなれば、それはそれは簡単なタスクだと思っていた。

だが12月になると状況は一変した。笑
朝から晩まで論文に打ち込み、考察し、結論を出そうとする。
来る日も来る日も執筆し、考察し、結果を出そうとする。
余分なものを削いで、削いで、針の先のような世界に立ち、自分にしか分からない「研究」なるものと格闘する―そのことは、やはり僕に大きなプレッシャーを与える事になった。まぁiBTと戦ったのが長かった分、そちらのプレッシャーの方が大きかったと思うが、それでも辛い時期だった。

1月6日。卒論提出日。
無事卒論を提出し終えた僕は、すぐ同月末に控えた院試に向けてフォーカスせざるを得なかった。内部進学とはいえ自分の専門を洗いざらい勉強する事はなかなか大変だった(ちなみに出た問題は人類学における「贈与」と「交換」の概念を区別して論じ、市場社会と非市場社会においてそれぞれの概念がどのように働くかというものだった。どうでも良いが。)。

1月26日に院試を終えると、次は2月22日のラストチャンス・iBTに全てを賭けて勉強を開始する。覚える単語数を増やし、リーディング量を増やし、スピーキング量を増やし・・・。

文字通り一つ一つが山場だったわけだが、2月のiBTを終えた辺りから気づき始めていた事があった。
前編にも書いた通り、一つは自分の「思考力」や「日本語力」が落ちていた事。
そしてもう一つは「目の前にある山」に全精力を傾ける事が、かえって自分にプレッシャーを与えるという事。「目の前にある山」に集中する事は、その山の高さに関わらず、「今超えるべき山」としてしか認識されない。だけど、もしその山に比較対象があったのなら、その山の高さは「相対化」される。iBTに集中していた僕は、「卒論執筆」を「タスク」として「相対的に低く」見る事が出来た。これは初めから卒論に集中していた人に比べたときの、大きな違いだと思っている。だけど卒論に集中しすぎた僕の目の前には、いつしか「卒論」は「絶対的かは分からないが」「高い」山として認識されてしまい、大きなプレッシャーを与えるようになった。



平たい例えを使おう。



「生涯をかけてエベレストに登ろうとする人」と、
「生涯をかけてエベレスト級の山に3つ登ろうとする人」では、
エベレストに対するプレッシャーが異なる。



これが僕のエベレスト・パラダイムシフトだ。

単に「目標は高く」という事ではなくて、色々な考え方に通じると思う。
例えば、マルチタスクをこなせる人は、マルチタスクをこなせる人だからこなせるのではなく、マルチタスクをこなすからこなせるようになるのだと思う。「仕事は忙しい人に頼め」というやつで、つまり仕事を多く抱える人にとって「一つ一つの仕事」は「相対的に小さく」感じるんだと思う。
受験勉強の時、9科目も一度に勉強出来たのも若さ故ではなくて、「一つ一つの科目」が「相対的に小さく」感じたからなのではないか。



目の前にタスクが降ってきたとき、決してそれに集中しすぎてはならないし、させられてはならない。
決してそれが「人生を賭けて登るエベレスト」だと思ってはならない。そんな物は人生に一つあるかないかだろうし、それで十分だ。
どんなに重く見えるタスクも、別のタスクが降ってくれば「相対的に小さく見える」タスクに変わるのだ。


このパラダイムシフトは、なかなか良い収穫だったと思っている。


4/18/2012

エベレスト・パラダイムシフト-前編-

昨年の10月位から、留学準備と卒論に追われ始めた頃のこと。
僕の口癖は「来月には暇になるから」だった。と言ってもそれは単に自分を慰める、逃げの言葉ではなくて、その発言をした時は本当にそうだったのだ。少なくとも当時の僕はそう思っていた。

来月の中旬にドラフトを出せば・・・
来月の10日に書類手続きを終えれば・・・
来月のTOEFLが終われば・・・
来月の学会が終われば・・・

暇になる、と。そして自分のやりたい事が自由に出来る、と。そう思っていた。でも精神的に大きなプレッシャーがかかるイベントが毎月毎月降ってきて(そのほとんどは自分から飛び込んだのだけど)、いつまで経っても暇にならなかった。

結局暇になったのは先月、卒論の最終稿を出し終え、大学院のapplyも全て終え、「後は結果待ち」という状態になってからだった。
「来月から暇」を盲目的に信じ、読書を怠り、考える事を怠り、人に会うことを怠り、外に出ることを怠り、

ひたすら自分の研究と英語の勉強に没頭していた僕は、いつしか余りに大きな物を失っていた。


それは余りに大きすぎて言葉にする事が難しいけれど、
多分「日本語力」「思考力」「知識」の3つを失った為に、僕の生活全てに影響したという事だと理解している。


まず人と話さなくなり、一方で英語論文執筆というアウトプットだけを繰り返す生活で、自分の日本語力が極端に落ちた。今の自分の気持ちを適切に表す一言が出てこなくなる。
僕は人前で話す事に対してある程度自信があるのだが、それも最近難しいと感じる。

そして日本語力が落ちたことに加え、論文執筆というアウトプット生活で読書を怠った事が、僕の「思考力」低下に拍車をかけた。インプットした事を頭の中で整理し、組み立てる事に時間を要するようになったのだ。本を読んだり、人と話している時は、常にその訓練をしていると言える。本に書いてあることや人の言ったことを自分なりに纏め、解釈し、応答する。自分だけの世界に閉じこもると、それが難しくなってしまう。
これは一緒に執筆している仲間たちとお互いの論文を批評しているとき、そして後輩の卒業論文構想発表会での質疑応答で顕著に表れた。
「鋭い」質問が出来なくなっていた。

「思考力」の低下と「鋭い」質問が出来ない事は、本を読まなかった為に「知識」が無い事も影響した。
忙しくなる前の僕は、人が言った意見を、自分の知識や最近読んだ本の文言と結びつけて発言することが出来ていた気がする。しかし自分の、あまりに狭い研究分野に没頭しすぎたために、日常の出来事すらクリティカルに考えられなくなってしまっていた。いわんや学術的話題をや。


今、僕はまた本を読み始めている。人と話すようにし、人に会うようにしている。今はまだ以前の感覚が取り戻せていなくて、人より後れている気がして、悶々としているけど、少しずつ改善されてきている気がする。

勿論4月になって自分の勉強も始まったし、奨学金の応募や自分のやりたいこと、バイトの事を考えると前と同じくらい忙しくなり始めた。
だけど、「来月には暇になる」は完全に無駄な妄想であって、同時に「今やっている事」に熱中しすぎる事は大きなマイナスになることを僕はもう知っている。
時間は常に自分より前にあって、それをcatch upしなければならないとか、ベルトコンベアーの様に時間が自分の前に流れてくる、というイメージを持ってはならない。今自分の目の前にある時間の中で、やりたいこととやるべき事をやらなければならない。


そして僕が行き着いたキーワードが、「エベレスト・パラダイムシフト」だった(後編に続く)。



4/16/2012

抽象的思考と言語の話

この前のブログの続き。


学会の準備をしていてもう一つ気づいたのは、まぁ当たり前だが英語で物事を考える難しさだった。

日常会話で、自分の得意なことなら勿論話せる。
「どこ出身なの?」とか「いつ日本に来たの?」とか「あの子かわいいよね」とか。
そういうのはサークルで4年間やってきた事だから。

ただ、日常会話でも自分の専門外の話とか、或いはアカデミックな会話はとても出来ない。
自分に抽象的な思考をするだけの語彙力がなくて、その語彙を易しい言葉で言い換えるにしても、時間がかかりすぎるからだ。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「そうだね、ずっと同じ状態に居るようなものかな。僕の准教授も言っていたけどね、ポストモダンな考えではもう右肩上がりの経済成長は望めないのに、まだ僕たちはそのパラダイムの中でそうした成長を望んでいるよね。これからは脱成長の考え方が必要だと思うんだ。僕にもまだよく分からないけど。」

という会話は今の僕では絶対に出来ない(ドヤッ)。メールで30分くらいかければ書けるけど。
そして、限られた時間で限られた語彙を使って考え、会話すると、ごくごく簡単な思考で、ごくごく簡単な会話しか出来なくなる。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「うーん、良くはないと思うよ。」

以上(ドヤッ)。


これは先生とディスカッションしている時にすごく悔しかった事。自分はもっともっと言いたいのに、言えることもあるのに、言語力が無いために思考が出来ない。

つまり、複雑な思考力は、言語力(語彙力、文法力、それらを組み合わせる力全て)に比例する。

これが僕の二番目の気づきだった。当たり前の事だけど、日本語で会話している限り、多くの人がそれに気づけないと思う。自分は日本語を自在に操れて、自在に会話出来ていて、もし複雑な思考が出来ないとすればそれは自分の頭の回転が鈍いからだ、と考えがちではないだろうか。
確かに母語が日本語の我々は、99パーセント完璧な文法で日本語を操れる。しかし「ある事象」を表す語彙が「あるかないか」もまた、複雑な思考をするのに必要な要素なんだと思う。

例えば自分が「りんご」という語彙しか持っていなかったとしたら、全ての事象を「りんご」という言葉で説明せねばならず、これでは必然的に無理が生じるだろう。
では「丸い」、「四角い」という語彙が加わったらどうか。
更に「赤い」や「青い」という概念が加わっていったら・・・?

これは究極的には、一つの言語の中の語彙数は勿論、複数の言語を操れたらどこまで複雑な思考が出来るだろうか、という話になる。英語や日本語にしかない言語があるから、それを組み合わせたらどんな思考が出来るのだろうか。
今の僕にはまだ分からないけど、複数の言語を学んだら何が起こるか、未来の自分に答えを聞いてみたい。


4/12/2012

言いたいことは先に。

昨年の10月、生まれて初めて学会というものに出させてもらい、しかもそれが自分の専門(文化人類学)とは異なる分野(英語教育学)であった事は既にこのブログに書いた通りだ。
もちろんそれ自体、僕にとって大きなプラスの経験だったのだが(そして大学院にアピールする最高の材料になったのは言うまでもない)、今日はその準備の時思った事を書こうと思う。

僕がネイティブの先生の所にスライド原稿を持って行ってディスカッションをした時、二つ気づいた事がある。
一つは「言いたいことは先に」という英語の原則が、どれほど大事かということ。
最初の内は、何度持って行っても「言いたいことがわからないわ」と言われ続けた。校正をして、自分で完璧だと思ってもダメ出しを喰らい続けた。
そしてある時ふと思い出した。

「言いたいことは先に」の原則。

自分が塾講師をやっている時、生徒に散々言ってきたことを、まさか自分が忘れていたとは。

つまりこういうことだ。

僕の初期のスライドでは、(1)英語教育の現状の説明、(2)政府の改革案の説明、(3)(2)に対する研究者たちの意見、(4)自分の意見、という構成になっていた。要はバックグラウンドの説明から入って、自分の主張を最後に持ってくるパターン。これは典型的な「日本的」構成で、先生からは"so, what is your point?"とか"what is your opinion?"とか言われまくった。
これを変えて、(1)問題点の提示と自分の研究の意義、(2)英語教育の現状とそれに対する自分の意見、(3)政府の改革案の説明とそれに対する自分の意見、(4)研究者の意見とそれに対する自分の意見、(5)(2)~(4)を踏まえた上の、自分の改革案の提示、という構成にした。自分の言いたいことは何なのか、この研究は何の為にやっているのか、現状での問題点は何で、自分はどう変えたいのか、を一枚一枚のスライドに持ってくることが重要だったわけだ。

英語の文章を書くときにはこの方法に慣れてきたけど、プレゼンにもこの原則が適応されるとは。向こうに行く前に良い勉強になった。

もう一つ気づいた事は、また稿を改めて。