11/16/2013

wannaとネイティブ

昔、facebookで、知り合いの日本人が「どうして日本人はgonnaとかwannaとかスラングを使いたがるのか!それは外国人が「〜しちゃった」とかを連発するようなもので、奇妙に違いない!」と少し怒り気味に(英語で)書いていた事があった。その人は日本でかなり一生懸命英語を勉強されている方なので、まぁ気持ちは分からないでもない。今日はその事について、「英語」概念を色々勉強してみて思うことを書こう。


まず、賢明な読者の方々はお気づきかと思うが、wannaやgonnaはスラングではない。音韻論的な言語現象で、want toを流ちょうに言うと(複数の言語現象の果てに)wannaになってしまう、その程度の事だ。だからまぁ、want toをwannaと発音出来る人は英語の発音に慣れ親しんだ人である事は多い。

ところが、実はwant toは常にwannaになるわけではない。下の例を見てみよう。

I wanna go shopping today.
Do you wanna go shopping today?
*Who do you wanna go shopping today?

上記三つの例文の内、初めの二つはwannaが成立するが、最後の一つは成立しない。実はwannaには但し書きがあって、単純に言えば「wantとtoの間に他の単語が入っていない時に限る」のだ。最後の文はもともとYou want who to go shopping today.という形で、wantとtoの間にwhoが入っている。従ってこれを疑問文にしたWho do you wanna go shopping today?も成立しないのだ。
このルールはもちろん高校まででは教えてくれないし、試験にも出ない。大学でも言語学を勉強しないと知ることは無いと思うし、言語学を勉強していないネイティブからこのルールを教えてもらう事もないだろう。だから、恐らく多くの日本人は「want toはいつでもwannaになる」と思い込んでいるのではないだろうか。
この例から見えてくるのは、言語現象の複雑さだ。一見単純に見えるwant toからwannaのような現象も、様々な言語現象と、様々な制約の果てに発せられているのである。ネイティブスピーカーはこうした現象と制約を誰にも教わらず完璧に使いこなせるわけだから、「ネイティブ」を目指すことがいかに勇猛果敢な挑戦かお分かり頂けると思う。


さて、ここで冒頭のコメントに戻ろう。
僕はその方の意見に、言語学的な観点からも、社会言語学的な観点からも半分は賛成だ。上で述べたように、聞きかじった程度の英語を使うことは言語学的なルールに違反する場合があるし、特定の言葉が文化規範に違反する場合もあるからだ(知らずに差別用語を使ってしまうなど)。間違いを恐れず言語を使うのは良いが、同時にそれが危険を孕む事も知っておかなければならない。


ところが、これが僕の言いたい事では無い。ここからが本題。

聞きかじった程度の英語が言語学的にも社会言語学的にもマークされうるのはその通りなのだが、果たしてそれは悪いことだろうか。
実は、この"markedness"を問題にすることが、すでに「ネイティブ」の罠に陥っているのである。「違反する」という行為は、違反する基準がなければ達成できるものではない。そしてその基準は「言語学的に」または「当該文化に」規定された英語なのである。世界中の全ての人間が、同一基準の英語と同一基準の文化を持っていればそれで構わないが、世界には様々な英語があって、それぞれの英語話者はそれぞれの文化背景を持ちながら会話している。何度も言っているが、英語という言語を世界規模で見た場合、それは既に誰に
所有されているものでもない。英語という言語は、Englishesとして土着化しているのだ。
となれば、人が人で有る限り「"want to"はいつでも"wanna"になって構わない」という考えが広まるのも時間の問題で、そこに新しい基準が出来る。アメリカ人やイギリス人が「そこでwannaなんて言わないよ」といくら目くじらを立てても、もうどうしようもない。かつて英語の所有者だった人々は、新しいバラエティーの英語を受け入れざるを得なくなる。誰の言葉だったか「西洋が作った植民地が、今度は西洋を植民地化しようとしている」のである。

もうこうなると訳が分からなくなってくる。「英語」とは何で、誰が誰の基準に合わせるべきなのか。英語学習者が学習の過程で使う英語は、「間違い」なのか、「バラエティー」なのか。「そこでwannaとは言わないよ」と教えるべきか「まぁ外国人だし仕方ないか」で済ませるか。今、多くの英語教育研究者が、このモラルハザードに直面している。


この記事には、結論も答えもない。一つの打開策は"Intercultural Communicative Competence"という概念で、それは別の機会に書ければ良いなと思っている。ただ、それは「英語教育者は何を教えるべきか」の答えではない。従って、この記事には答えが無い。僕は冒頭のコメントに半分賛成だが、半分反対だ。そこにどう折り合いをつけるか、それがこれからの課題。


11/11/2013

集中している時の話

「よし、自分に負けないで頑張ろう」と思うのは良いのだが、そう思いながら作業をしている時点でもう負けているという事に気がついた。
気がついたというより、再確認した。

本当に集中している時、人は、無心になるものだなと。


そんな当たり前の話。