12/08/2012

言語学習とは

道である、と思う。




いきなり何をクレイジーな事を言い始めたのかと思われるかもしれないが、最近思うことだ。

外国語学習は、よくスポーツに例えられる。
スポーツの結果が、地道な筋肉トレーニングや走り込みによって、少しずつ少しずつ向上するように、
外国語学習もまた、地道な単語学習や文法学習によって、少しずつ少しずつパフォーマンスが向上していくものである、と。怠ければ鈍る。

その中でも、僕は(外国語を含めた)言語学習一般は「道」だと思う。
これを言うと「道」と「スポーツ」の違いは何か、という話になって、「道」の人からも「スポーツ」の人からも怒られそうだが、個人的には「結果」以上の何か、「競争」以外の何かを求めるのが「道」だと思う。一つの形(かた)や動きから、目に見えない精神世界に至るまでを徹底的に洗練し、あるかどうかも分からない「悟り」とか「神髄」を求め続ける。それが「道」ではないか、と。


言語学習に、終わりはない。母国語とて、僕より遙かに上手な日本語の使い手は日本に星の数ほど存在するはずだ。日本語の上手な作家が紡ぐ、ことばの言い回し、バランス、韻、リズムが徹底的に考え抜かれた文章は、文字通り読者を「ハッ」とさせる。

99%文法を正しく扱え、ネイティブスピーカーと同程度の語彙力を持つことがスタートライン。
そこからも、果てのない学習の道が続いていく。


僕は今、英語においてその道を進もうとしている。


ネイティブスピーカーと「なんとかコミュニケーションを取」って、「異文化コミュニケーションを楽しむ」だけの時期はとうに過ぎた。ことばを自在に操り、ニュアンスを感じ取り、混ぜ込むレベルまで達する。次のレベルの異文化コミュニケーションへ。



僕は今、その道を進もうとしている。





11/15/2012

TOEFLの妄想と知の形成のはなし。

久しぶりに、そこはかとなく思った事を書き留めておこうと思う。
留学準備をしている人は、もう11月だし、早い人は既にapplyを終えたことだろう。
何度でも言うが、もし今「やべーよTOEFLの点数上がんねーよ奨学金すら申しこめねーよ」と思っている同胞がいるのなら、焦ることはない。いや、焦っては欲しいが、諦めては欲しくない。何故なら僕も同じ状況で、最終的にapplyしたのは2月だったから。
心配ない。
今は泣きながら努力したら良いと思う。
逆に言えば泣いてばかりいないで、努力はしたら良いと思う。


さて、今日の話はそれとかぶる事になる。
単純に言えば、渡米して3ヶ月、感じたのは「英語が出来ないうちに留学すんな」って事だ。学部留学と違って、大学院留学は「英語を使った研究」に重きが置かれる。当たり前だけど。
そして、特に学部から大学院で専攻を変えた場合、初めのセメスターで基礎知識を一気に叩き込まれる故、英語が出来ないまま渡米するとはっきり言って時間の無駄だ。無意味ではないが、多くの時間を無駄にしている。少なくとも僕はそう思った。


知は、対話によって形成される事が大きいと思う。読み、書き、話し、聞く。言語/非言語問わず、インタラクティブな活動によって発見や反省が繰り返され、知が形成されていく。言語が出来ないことは、その分だけ知の形成を遅らせている、と思う。
僕の場合、文法はきちんと勉強したので、幸いリーディングは相対的に「出来るな」と感じた。だからリーディングによる知識の吸収は確実に感じた。ところが抽象的なレクチャーを聴き、ディスカッションするとなると途端に駄目だったので、毎日毎日、知が形成される機会を逃している気がした。

繰り返すが、決して「無意味」ではない。英語による思考自体はもちろん、この「あ、あれだけ勉強しても英語って使いこなせないんだ(笑)」という感覚も「成長」であり、昨日より今日、先月より今月授業に溶け込めるようになる感覚はモチベーションにもなる。

ただ、間違いなく知の形成は行われにくい。

もしまだ留学したことが無くて、これから大学院留学を考える人が居たら(学部留学も出来るに越したことはないが)、わずかでも良い。ネイティブとでなくても良い。自分の得意分野で構わない。四技能を使った抽象的な思考を練習しておくと良い。当たり前だが、それは知の形成を促すとともに、当該分野に溶け込むための練習にもなる。


はっきり言おう。TOEFLはただの試験だ。英語でディスカッション出来るレベルの人はTOEFLでも高得点は取れるだろうが、逆は違う。
僕がこの明々白々たる事実を誤解していたので、当たり前の事をここでもう一度言おう。
「TOEFLを目標にする事は大きな間違い」だ。泣きながらTOEFLやGREの勉強をするのはもちろん、その先を見据えた努力も怠らないようにすると、後々良いことがある。



8/24/2012

fromハワイ

えぇと。何から始めれば良いのか分からないが、とにかく今僕はハワイ大学で大学院生をしている。無事にオアフ島に乗り込めたわけだ。前も言ったけど、決してブログを放棄するつもりはない。ただ時期によってあんまり書きたくなくなるだけだ。

でもこのブログの目的は、あくまで僕の「今に至るまで」の記録を残しておくもので、僕は今の現状をつらつら書き出して行くつもりは無い。今のところ。

2013年から留学しようとしている人はそろそろ奨学金の応募が始まった頃だろう。頑張って下さい。
そういう人のために、これからもちょろちょろ僕が困った事をはき出して行きますのでよろしくお願いします。


もしこのブログを見ているあなたが「やべぇよ間に合わねぇよ」と思っているなら。
留学について情報提供をしているサイトをみて「全然スケジュール通りじゃねえよ」と焦りを感じているなら。

何度でも言おう。
「ここにギリギリのラインで戦い続けた阿呆がいる」と。
そして「遅くなど無い」と。
「でも出来る限り早くやったほうが良いよ」と(笑)

その内ノートとか記事とか書きます。そのうちね。

5/12/2012

留学への壁と大きな誤解とパラダイム。

ゴールデンウィーク実家に帰省して、帰ってきたらハワイ大学とミシガン州立大学から正式な合格通知が届いてた。



左がハワイ大学、右がミシガン州立大学。ともにletter版で、DeanまたはDirectorのサインが入っている。すかし付きかと思ったのに、別にそんな事は無かった。笑

この他には、両校ともI-20のフォームが入っていて、これを使えばビザ申請が出来る。と。

I-20には色んな情報が書いてあるけど、その中に授業料も書いてある。下の写真はハワイ大学のものだ。



曰く、授業料が$27,729($1=80円としておよそ222万円)、生活費が$15,900(およそ127万円)だそうだ。あわせて、一年間でおよそ350万円必要という事になる。
最悪は親に払って貰う事も考えられるけど、その場合はきちんと後で返したいし、それは最も回避したい選択肢だ。個人的にはただの親不孝だと思っている。
まずは何とか奨学金を貰えるよう努力したい。そして、向こうの教授にもさっさと連絡をとって、TAの口などを見つけられたら、と思う。

大学院合格に向かって突っ走っていたので、それがゴールみたいになっていたけど、僕は入学したわけでもなし。勉強を始めたわけでもなし。まだまだこうした「現実的な」問題も含めて、修士号取得までには長い道のりが待っているだろう。

そして、返す返す、これが、エベレスト・パラダイムってわけだ。目標を一つに定めるとどうしてもその目標に固執し、「それを超えるべき山」として認識してしまう。アメリカで勉強する手段としての大学院合格だったのに、いつのまにかそれ自体が目的化してしまった。いわゆる「手段の目的化」。
アメリカで勉強するためには、まだまだ無数の壁が存在し、一つに固執しないようにしないと。
新たな壁が出現した(と思われる)時にびっくりしちゃうからね。

話が少し逸れるけど、iBTのスコアもそんな感じだった。いつの間にか僕の中で、そしてこのブログの目的自体「iBTで102点などというチープな点数をとった私」が主人公になってた。猛省。

一つ一つは手段であって、究極の目標ではないのだからね。


5/01/2012

結果③

以前書いた通り、南カリフォルニア大学は全て書類を出した後に「financial statementのお金が足りてませんよ」と言われたので、なら良いかと思って放っておいたのだが。。。





今日合格のメールが届いた。笑
「合格です。でもfinancial statement、早く出してね。」的な。



朝からすごい興奮してきてしまった。笑
あれ、アメリカの大学院ってこんなに受け入れて貰えるものなんだろうか・・・
マスターコースだから?名だたる私立大学なら受け入れが難しいってだけなんだろうか???


そんなわけで今の結果はこんな感じだ(もはや公表に意味はないが)。

Columbia University Teachers College: 不合格
University of Hawaii at Manoa: 合格
University of Southern California: (金さえあれば)合格
Michigan State University: 合格
University of Melbourne: 結果待ち


それにしても合格のメールが来て以来、ハワイ大学から何の音沙汰も無い。
(当然ながら)Graduate Divisionにメールをしたが(予想されたとおり)返ってこない。
仕方ないから、合格のメールをくれた教授に直接メールをしてみようと思う。

4/28/2012

無題

春と鬱の関係がどうなっているかは知らないけど、春鬱ってあるらしいし、僕も春は躁鬱が激しい。

ていうか今まさに鬱だ。
毎年なるっちゃなるんだけど、まぁ今年も鬱々している。
今日書くのはそんな春鬱に関する雑感。

まず、僕は春って別に嫌いじゃないし、むしろ好きだ。
春になると桜が咲いて、虫が飛び始めて、気温もぽかぽか、大学には新入生が溢れ、希望に満ちた(ように見える)日々が続く。自分も何か新しい事にチャレンジしようかな、と思えるようになる。

ただ、同時に、春鬱のポイントはそこだと思う。

春は、冬と違って、周りの景色は刻々と変化していくのが分かる。桜は咲いては散り、気温は上がり始め、新歓シーズンが始まったと思ったら終わり、非日常が日常へと「落ち着いて」行く。
ところが自分はそう簡単に変わらない。昨日と同じ自分が生きている(ように感じる)。何も成長していなくて、「あれ、何にも成長してなくね?」と思って落ち込む。あるいは、成長したつもりが、人から自分の悪い噂を聞いたり、人に向けられた説教を勝手に自分への説教に置き換えたりして、いつも以上にへこんだりする。
それは自分の成長を否定しているわけではないけれど、自分にはそう聞こえる。

周りはどんどん変化していくのに、自分は停滞しているように感じる。そんで、周りの「非日常」が「日常」に落ち着いた時、つまり変化が一段落して、「周りの世界が自分の世界と一致した時」、やっと安心するんじゃないかな。春→夏、秋→冬よりも、夏→秋とか冬→春の変化の方が大きいから、春って鬱々するのでは。

でも事実、環境はかわれど花や木や虫たちは「成長」などとは露ほども思っていないだろうし、周りの人間だってそんなに簡単に成長してはいない。もっと言えば自分だっていつでも成長できるわけだし、要は周りの時の早さが「早く感じる」だけってことだろう(メイドインヘブン!)。
春を「きっかけ」として自分が新しい事に挑戦するのにやぶさかではないけれど、躓いたときは、人間そうは変わらないって事で、まぁ春を楽しめば幾分かは楽なのかも。

そんな雑感。




4/22/2012

エベレスト・パラダイムシフト-後編-

あれは去年の10月か11月の事だ。
当時僕は人生最大の挫折を迎えていた。iBTの点数がいくらやっても上がらなかったからだ(無題参照)。何かが足りないのに、何が足りないのか、どうやって補えば良いのか分からなかった。そのくせ11月からは卒論の執筆が本格的に始まり朝から晩まで研究室で執筆。英語の勉強に時間を割いている暇など無くなることが明々白々だった。
12月にはapplyを終えようと思っていたのに、それもどうやら難しそうだ・・・どんなサイトを見ても『渡米前年の夏にはTOEFLでスコアをとり、12月から、遅くとも1月にはapplyを終えましょう』なんて朗らかなトーンで書いていやがる。フザケンナ(だからこそ同じ境遇に居る誰かにこのブログが役に立つと信じるのだが)。

とにかく、英語に対する自信を失ったことと、留学準備が全く終わらない恐怖で僕は一人不安で狂いそうだった。周りには同じ境遇の人間などいないし、大学受験の時とは違って、孤独で、不安で、本当に押しつぶされそうだった。
そんな精神状態で迎えた11月。予想された通り、朝から終電まで研究室に籠もる生活が続いた。

とはいえ11月の僕はそんな生活を僕は楽しんでいた。冗談ではなく、本当に、楽しんでいた。
だって卒論に『不合格』は(99%)存在しないし、執筆する仲間や助けてくれる先生方が周りに居たし、何よりiBTの事や留学のことを考える暇が無かったから。卒論は留学準備を控えた僕にとって「一つのタスク」位に感じられたし、その「タスク」に失敗が無くて仲間も居るとなれば、それはそれは簡単なタスクだと思っていた。

だが12月になると状況は一変した。笑
朝から晩まで論文に打ち込み、考察し、結論を出そうとする。
来る日も来る日も執筆し、考察し、結果を出そうとする。
余分なものを削いで、削いで、針の先のような世界に立ち、自分にしか分からない「研究」なるものと格闘する―そのことは、やはり僕に大きなプレッシャーを与える事になった。まぁiBTと戦ったのが長かった分、そちらのプレッシャーの方が大きかったと思うが、それでも辛い時期だった。

1月6日。卒論提出日。
無事卒論を提出し終えた僕は、すぐ同月末に控えた院試に向けてフォーカスせざるを得なかった。内部進学とはいえ自分の専門を洗いざらい勉強する事はなかなか大変だった(ちなみに出た問題は人類学における「贈与」と「交換」の概念を区別して論じ、市場社会と非市場社会においてそれぞれの概念がどのように働くかというものだった。どうでも良いが。)。

1月26日に院試を終えると、次は2月22日のラストチャンス・iBTに全てを賭けて勉強を開始する。覚える単語数を増やし、リーディング量を増やし、スピーキング量を増やし・・・。

文字通り一つ一つが山場だったわけだが、2月のiBTを終えた辺りから気づき始めていた事があった。
前編にも書いた通り、一つは自分の「思考力」や「日本語力」が落ちていた事。
そしてもう一つは「目の前にある山」に全精力を傾ける事が、かえって自分にプレッシャーを与えるという事。「目の前にある山」に集中する事は、その山の高さに関わらず、「今超えるべき山」としてしか認識されない。だけど、もしその山に比較対象があったのなら、その山の高さは「相対化」される。iBTに集中していた僕は、「卒論執筆」を「タスク」として「相対的に低く」見る事が出来た。これは初めから卒論に集中していた人に比べたときの、大きな違いだと思っている。だけど卒論に集中しすぎた僕の目の前には、いつしか「卒論」は「絶対的かは分からないが」「高い」山として認識されてしまい、大きなプレッシャーを与えるようになった。



平たい例えを使おう。



「生涯をかけてエベレストに登ろうとする人」と、
「生涯をかけてエベレスト級の山に3つ登ろうとする人」では、
エベレストに対するプレッシャーが異なる。



これが僕のエベレスト・パラダイムシフトだ。

単に「目標は高く」という事ではなくて、色々な考え方に通じると思う。
例えば、マルチタスクをこなせる人は、マルチタスクをこなせる人だからこなせるのではなく、マルチタスクをこなすからこなせるようになるのだと思う。「仕事は忙しい人に頼め」というやつで、つまり仕事を多く抱える人にとって「一つ一つの仕事」は「相対的に小さく」感じるんだと思う。
受験勉強の時、9科目も一度に勉強出来たのも若さ故ではなくて、「一つ一つの科目」が「相対的に小さく」感じたからなのではないか。



目の前にタスクが降ってきたとき、決してそれに集中しすぎてはならないし、させられてはならない。
決してそれが「人生を賭けて登るエベレスト」だと思ってはならない。そんな物は人生に一つあるかないかだろうし、それで十分だ。
どんなに重く見えるタスクも、別のタスクが降ってくれば「相対的に小さく見える」タスクに変わるのだ。


このパラダイムシフトは、なかなか良い収穫だったと思っている。


4/18/2012

エベレスト・パラダイムシフト-前編-

昨年の10月位から、留学準備と卒論に追われ始めた頃のこと。
僕の口癖は「来月には暇になるから」だった。と言ってもそれは単に自分を慰める、逃げの言葉ではなくて、その発言をした時は本当にそうだったのだ。少なくとも当時の僕はそう思っていた。

来月の中旬にドラフトを出せば・・・
来月の10日に書類手続きを終えれば・・・
来月のTOEFLが終われば・・・
来月の学会が終われば・・・

暇になる、と。そして自分のやりたい事が自由に出来る、と。そう思っていた。でも精神的に大きなプレッシャーがかかるイベントが毎月毎月降ってきて(そのほとんどは自分から飛び込んだのだけど)、いつまで経っても暇にならなかった。

結局暇になったのは先月、卒論の最終稿を出し終え、大学院のapplyも全て終え、「後は結果待ち」という状態になってからだった。
「来月から暇」を盲目的に信じ、読書を怠り、考える事を怠り、人に会うことを怠り、外に出ることを怠り、

ひたすら自分の研究と英語の勉強に没頭していた僕は、いつしか余りに大きな物を失っていた。


それは余りに大きすぎて言葉にする事が難しいけれど、
多分「日本語力」「思考力」「知識」の3つを失った為に、僕の生活全てに影響したという事だと理解している。


まず人と話さなくなり、一方で英語論文執筆というアウトプットだけを繰り返す生活で、自分の日本語力が極端に落ちた。今の自分の気持ちを適切に表す一言が出てこなくなる。
僕は人前で話す事に対してある程度自信があるのだが、それも最近難しいと感じる。

そして日本語力が落ちたことに加え、論文執筆というアウトプット生活で読書を怠った事が、僕の「思考力」低下に拍車をかけた。インプットした事を頭の中で整理し、組み立てる事に時間を要するようになったのだ。本を読んだり、人と話している時は、常にその訓練をしていると言える。本に書いてあることや人の言ったことを自分なりに纏め、解釈し、応答する。自分だけの世界に閉じこもると、それが難しくなってしまう。
これは一緒に執筆している仲間たちとお互いの論文を批評しているとき、そして後輩の卒業論文構想発表会での質疑応答で顕著に表れた。
「鋭い」質問が出来なくなっていた。

「思考力」の低下と「鋭い」質問が出来ない事は、本を読まなかった為に「知識」が無い事も影響した。
忙しくなる前の僕は、人が言った意見を、自分の知識や最近読んだ本の文言と結びつけて発言することが出来ていた気がする。しかし自分の、あまりに狭い研究分野に没頭しすぎたために、日常の出来事すらクリティカルに考えられなくなってしまっていた。いわんや学術的話題をや。


今、僕はまた本を読み始めている。人と話すようにし、人に会うようにしている。今はまだ以前の感覚が取り戻せていなくて、人より後れている気がして、悶々としているけど、少しずつ改善されてきている気がする。

勿論4月になって自分の勉強も始まったし、奨学金の応募や自分のやりたいこと、バイトの事を考えると前と同じくらい忙しくなり始めた。
だけど、「来月には暇になる」は完全に無駄な妄想であって、同時に「今やっている事」に熱中しすぎる事は大きなマイナスになることを僕はもう知っている。
時間は常に自分より前にあって、それをcatch upしなければならないとか、ベルトコンベアーの様に時間が自分の前に流れてくる、というイメージを持ってはならない。今自分の目の前にある時間の中で、やりたいこととやるべき事をやらなければならない。


そして僕が行き着いたキーワードが、「エベレスト・パラダイムシフト」だった(後編に続く)。



4/16/2012

抽象的思考と言語の話

この前のブログの続き。


学会の準備をしていてもう一つ気づいたのは、まぁ当たり前だが英語で物事を考える難しさだった。

日常会話で、自分の得意なことなら勿論話せる。
「どこ出身なの?」とか「いつ日本に来たの?」とか「あの子かわいいよね」とか。
そういうのはサークルで4年間やってきた事だから。

ただ、日常会話でも自分の専門外の話とか、或いはアカデミックな会話はとても出来ない。
自分に抽象的な思考をするだけの語彙力がなくて、その語彙を易しい言葉で言い換えるにしても、時間がかかりすぎるからだ。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「そうだね、ずっと同じ状態に居るようなものかな。僕の准教授も言っていたけどね、ポストモダンな考えではもう右肩上がりの経済成長は望めないのに、まだ僕たちはそのパラダイムの中でそうした成長を望んでいるよね。これからは脱成長の考え方が必要だと思うんだ。僕にもまだよく分からないけど。」

という会話は今の僕では絶対に出来ない(ドヤッ)。メールで30分くらいかければ書けるけど。
そして、限られた時間で限られた語彙を使って考え、会話すると、ごくごく簡単な思考で、ごくごく簡単な会話しか出来なくなる。

「最近の日本の経済状況はどうだい?」
「うーん、良くはないと思うよ。」

以上(ドヤッ)。


これは先生とディスカッションしている時にすごく悔しかった事。自分はもっともっと言いたいのに、言えることもあるのに、言語力が無いために思考が出来ない。

つまり、複雑な思考力は、言語力(語彙力、文法力、それらを組み合わせる力全て)に比例する。

これが僕の二番目の気づきだった。当たり前の事だけど、日本語で会話している限り、多くの人がそれに気づけないと思う。自分は日本語を自在に操れて、自在に会話出来ていて、もし複雑な思考が出来ないとすればそれは自分の頭の回転が鈍いからだ、と考えがちではないだろうか。
確かに母語が日本語の我々は、99パーセント完璧な文法で日本語を操れる。しかし「ある事象」を表す語彙が「あるかないか」もまた、複雑な思考をするのに必要な要素なんだと思う。

例えば自分が「りんご」という語彙しか持っていなかったとしたら、全ての事象を「りんご」という言葉で説明せねばならず、これでは必然的に無理が生じるだろう。
では「丸い」、「四角い」という語彙が加わったらどうか。
更に「赤い」や「青い」という概念が加わっていったら・・・?

これは究極的には、一つの言語の中の語彙数は勿論、複数の言語を操れたらどこまで複雑な思考が出来るだろうか、という話になる。英語や日本語にしかない言語があるから、それを組み合わせたらどんな思考が出来るのだろうか。
今の僕にはまだ分からないけど、複数の言語を学んだら何が起こるか、未来の自分に答えを聞いてみたい。


4/12/2012

言いたいことは先に。

昨年の10月、生まれて初めて学会というものに出させてもらい、しかもそれが自分の専門(文化人類学)とは異なる分野(英語教育学)であった事は既にこのブログに書いた通りだ。
もちろんそれ自体、僕にとって大きなプラスの経験だったのだが(そして大学院にアピールする最高の材料になったのは言うまでもない)、今日はその準備の時思った事を書こうと思う。

僕がネイティブの先生の所にスライド原稿を持って行ってディスカッションをした時、二つ気づいた事がある。
一つは「言いたいことは先に」という英語の原則が、どれほど大事かということ。
最初の内は、何度持って行っても「言いたいことがわからないわ」と言われ続けた。校正をして、自分で完璧だと思ってもダメ出しを喰らい続けた。
そしてある時ふと思い出した。

「言いたいことは先に」の原則。

自分が塾講師をやっている時、生徒に散々言ってきたことを、まさか自分が忘れていたとは。

つまりこういうことだ。

僕の初期のスライドでは、(1)英語教育の現状の説明、(2)政府の改革案の説明、(3)(2)に対する研究者たちの意見、(4)自分の意見、という構成になっていた。要はバックグラウンドの説明から入って、自分の主張を最後に持ってくるパターン。これは典型的な「日本的」構成で、先生からは"so, what is your point?"とか"what is your opinion?"とか言われまくった。
これを変えて、(1)問題点の提示と自分の研究の意義、(2)英語教育の現状とそれに対する自分の意見、(3)政府の改革案の説明とそれに対する自分の意見、(4)研究者の意見とそれに対する自分の意見、(5)(2)~(4)を踏まえた上の、自分の改革案の提示、という構成にした。自分の言いたいことは何なのか、この研究は何の為にやっているのか、現状での問題点は何で、自分はどう変えたいのか、を一枚一枚のスライドに持ってくることが重要だったわけだ。

英語の文章を書くときにはこの方法に慣れてきたけど、プレゼンにもこの原則が適応されるとは。向こうに行く前に良い勉強になった。

もう一つ気づいた事は、また稿を改めて。

3/30/2012

結果②

今日の朝、ミシガン州立大学から合格通知を貰った。まさかあの準備で複数校から合格を貰えるとは思っていなかったので、非常に嬉しい。

まぁ僕としてはハワイに受かった以上、ハワイに行くことはほとんど決定しているわけだけど、それでもこうして合格できるのは喜ばしい。

あとはオーストラリアのメルボルン大学から返事を待っているわけだ。

今の段階で、結果は以下のようになっている。
Columbia University Teachers College:不合格(噂には聞いていたが、iBTの点数が足りないだけですぐ落とされた。書類すら見てもらえなかった。)
University of Hawaii at Manoa:合格
University of Southern California:辞退(ハワイ大合格の後で、Financial Statementのお金が足りないと言われたので、まぁ別に良いか、と。)
Michigan State University:合格
University of Melbourne:結果待ち

あとは奨学金が貰えるかが鍵だなぁ。ていうか、ハワイから透かし付きの合格通知か何か届かないと、どうしても信じられないんだよなぁ。


3/29/2012

今から。これから。

なんやかんや色々あったけど、無事にUniversity of Hawaii at Manoaに受かった。

今までブログは休止していたわけだけど、その理由は大きく二つある(2月のブログ3件は、下書きとして保存しておいたのを公開しただけ)。
一つは時間が勿体ないから。一つの記事を書くのに2時間はかけてしまうから、ブログを書いてて大学院落ちたら本末転倒ということで休止していた。
もう一つは、ブログに若さ溢れる夢や希望を書いていて、最終的に落ちたときに恥ずかしすぎるからだ。笑

でも、まぁ結果的に受かったし、そろそろ2013年以降留学を考えている人の為に記録を残そうと思う。
詳しい記録は、今「ノート」を作成しているので、そちらを見てもらえればと思う。

僕は、英語圏に住んだことも無いし、語学研修で滞在した事もない。海外といえば一週間ずつバックパッカーをした東南アジアとインドだけだ。TOEFLも結局予備校には通わず、まぁ独学で頑張った。
ノートを見てもらえば分かるけど、多分僕以上に準備が遅かった人も希だと思う。初めて向こうの教授にメールしたのも、推薦状を揃えたのも1月に入ってからだ。iBTは2月に受けたし、applyは3月だった。
そんな僕でもなんとかiBTは100点超えたし、TESL分野で世界最高峰のハワイ大にも受かった。

それは個人的な自慢でもあるけど、それ以上の意味がある。

それは「死ぬ気で頑張れば、独学で院に受かることは可能」

という事だ。


今は訪問者数も少ないこのブログだけど、ネットで「アメリカ 大学院 勉強」とかなんとかサーチして辿り着いた人に伝えたい。
「遅すぎるなんて事はない」
「死ぬ気でやれば受かる」

どこか誰かの見知らぬ人に、僕のこの記録が勇気を与えられることを願ってやまない。僕は、僕の知るありったけを発信していこう。

2/24/2012

無題

遅すぎるなんてことはない。
だから、今やるんだ。
本当の手遅れになる前に。

今ならわかりかけている。
言いたい。受かったら声を大にして言いたい。

そして付け加えたい。
「でも出来ることなら早めにやっちゃうんだよ」と。

無題

たっくさんタスクがあるときは、まず出来ることからやること。
これは、忙しい時ほど出来て、暇なときには非常に難しい。
ある人は言う。「仕事は忙しい人に頼め」と。
正にその通りだと思う。

2/16/2012

無題

ひとつずつ終わらせようじゃないか。
焦っているときほど、一つずつ。
それにしても何でこんなにも焦っているのだろうか・・・無駄な焦燥感があるな。最近。

一つずつ、一つずつ。それしか道は開けていかないから。